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大手証券会社のコンサルティング室長が書いている記事の中で、次のような表現を見つけた。 国際交流を描いたビルディングスロマンが(私小説でもいいですが)新 しい書き手によって書かれていくような予感がします
buildings roman (建物浪漫)? Bildungsroman は、教養小説と訳された。手元の辞書を引いてみると「ビルドゥングスロマン【Bildungsromanドイツ】教養小説。【岩波書店 広辞苑第五版】」となっている。 この訳語は現在では誤解を与えそうだ。読んで教養を身につけるための小説という感じがしないだろうか。そのため、わたしはほとんど誤訳だと思っていた。ただ、改めて調べてみると「教養」には「教え育てる」という意味もあった。辞書には「子を教養する」という明治時代の用例が載っていた。この意味なら、必ずしも誤訳ではないかもしれないのだが、現代では使わなくなった用法だ。 Bildungsroman は、成長の物語、人間形成の物語である。主人公が子どもから大人になる人間的な成長を描いた小説なのだ。代表例とされるのがゲーテのヴィルヘルム・マイスターである。なお、英語では"novel of education" とか、"novel of formation"とか言うようだ。 以前からずっと「教養」というものをどう考えるべきか気になっている。教養を感じる人がほとんどいなくなり、「こんなことも知らないのか」と驚く機会を積み重ねていくうちに、ほとんど期待しなくなっているつもりなのだが、それでも情けなく感じることは少なくない。 なお、単純な勘違いと教養のある人ならしない間違いとはまったく別のものである。その違いが分かることも、教養があることの条件の一つだろう。 新書を書くにあたっても、いろいろと考えた。教養を前提に書けないのはすでに明らかだ。わたしの課題は、"「正しさ」を考えるために身につけておくべき教養"となるべきものを書くことだった。 念のために断っておくと、わたしは自分を教養があるとは思っていない。わたしは、ずっと「教養主義」が嫌いだった。おかげで教養を身につける重要な機会を逃してしまったように思う。今からでも遅くない、と言いたいところだが、そのために多くの時間を費やすことは諦めなければならないだろう。 |
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