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教養について語ろうとするなら、この言葉の定義をどうするかを明らかにしておく必要があるだろう。 定義の仕方には二通りある。一つは、その言葉が実際にどのような意味で使われているのかを明らかにするやり方だ。これを事実的定義と呼ぶ。もう一つは、自分はこの言葉をこの意味で使う、という内容を明らかにするやり方だ。これを規範的定義と呼ぶ。 事実的定義は、辞書が行っているようなやり方である。このやり方の問題は、ある言葉を、実際に人がどのような意味で使っていることを完全に把握することが不可能だという点にある。また、仮に可能だとしても、話者によって微妙に使い方が異なるという問題が残る。さらには、「間違って」使っている場合をどうするかという問題もある。 規範的定義は、事実の制約からは自由であるかに見える。実際にどう使われていようと、自分はこう使うのだ、ということを宣言することはもちろん可能だ。 とはいえ、規範的定義が全く事実の制約を考慮しないですむかというと、実はそうではない。その理由は2つある。第一の理由は、ある言葉が「実際にどのような意味で使われているか・使われてきたか」ということを無視して定義すると、自分の意図を正しく伝えることができなくなってしまうということだ。 四つ足で「ワン」と鳴く動物を「ネコ」という意味で使うと宣言することは可能だが、そんなことをしても、聞いた人が混乱するだけだ。 第2の理由は、独自の意味を説明するときの言葉は、事実的定義に従っている必要があるということだ。上の例を使うなら、「四つ足」というのは「指が5本ある」ということで「ワン」というのことばは、「ぶう」という音を表わすのだとしたら、上の説明を聞いた人間にも、話者の意図は伝わらない。けっきょく、独自の意味の説明には、事実的定義に従ったことばを使わざるをえないのである。 広辞苑には、次のように書かれている。 きょう‐よう【教養】 この事実的定義を出発点にすることにしよう。教養ということばは、上記のように扱われてきたと考えていいだろうか? いいとして、ではいまの日本で身につけるべき教養というのはいったい何なのだろう。 |
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